研究ノ-ト 心越禅師と水戸黄門との接点は
国民的テレビ時代劇「水戸黄門」が12月、惜しまれつつ終了するそうです。(2011年12月19日終了、1226回)42年にわたる長寿番組とのこと。先日、中日新聞に特集がでていました。勧善懲悪・ホ-ムドラマ的・旅番組的が人気の秘密とか。しかしながら、伝統を受け継いで努力を重ねたものの、「反逆する力」=新しい個性が、視聴者を受け入れられなくなったと新聞のコラムにあった。
さて、私はかねてより、心越禅師と水戸黄門との繋がりは何処にあったのだろうかと不思議に思っていた。
心越禅師を調べてみると、1676年(延宝4年)清の圧政から逃れるため中国杭州の西湖にあった永福寺を出て日本に亡命。翌1677年薩摩に入ったとされ、1679年黄檗山萬福寺の木庵を訪ねるなど各地を遊歴。1681年(延宝9年)に長崎の唐寺・興福寺に住した。外国人でありながら日本国内を旅行したため、清の密偵と疑われ長崎の寺に幽閉されることとなる。その後、1683年(天和3年)、水戸藩の徳川光圀(いわゆる水戸黄門)の尽力により釈放。45歳の時、水戸にわたり、天徳寺に住し篆刻や古琴を伝えるとある。
心越禅師を始め多くの文人や僧侶が明末清初の騒乱期に日本に亡命した。その1人でもある。しかしながら、いきなり水戸黄門に助けられたとも思われない。
その後、童門冬二先生が中日新聞の「先人たちの名語録」という欄に、徳川光圀と明からの亡命学者朱舜水のことを掲載された。儒学者朱舜水は、鄭成功が鎖国政策下の日本へ明の救援を求める日本請援使として派遣されたが、1659年(万治2年)復明運動を諦めて日本の長崎へ亡命、1660年(万治3年)には筑後国柳川藩の儒者安東省菴に援助され、流寓生活を送る。明末清初の時期には中国から日本へ多くの文人が渡来し、大名家では彼らを招聘することが行われていた。 寛文5年(1665年)6月、66歳の時水戸藩藩主の徳川光圀に招聘され、江戸に移住し、「経世済民の学」としての実学(前期水戸学)を指導した。招聘理由は、伯父の尾張藩主徳川義直の勧めがあった。
その後、心越禅師は、亡命した文人や学者のネットワ-クの中から朱舜水の後継者に任命され水戸学の重鎮として光圀を助けることとなる。ここに、禅師と水戸光圀公との繋がりを見いだすことができた。
お話がながくなってしまったが、ネットで調べているうちに「心越禅師と徳川光圀の思想変遷試論―朱舜水思想との比較において― 徐 興慶先生の論文(日本漢文学研究3)を拝見することができた。禅師の業績は、水戸学のみならず、徐先生が、最後に書かれたように「心越は十四世紀後、中国曹洞禅学の日本における三百四十余年の空白を補い、同時にその幅広い学芸技能により徳川中期の日本文化の深層に影響を与え、・・」と貢献を認められている。曹洞禅学の中からも心越禅師の業績を見つめる必要があるようだ。
いずれにしても、どうしてこんな立派な方の直筆が当山にあるのだろうか不思議ですね。さらに、鎖国政策化の江戸時代において今以上にダイナミックな人物交流があったのにも驚きました。皆さん方のお考えはいかがですか。

杭州 永福寺にて 平成21年3月(2009年)
(2011.12.14 記) |