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本尊 薬師如来  前立 聖観世音善薩
書斎の窓


       「下山の思想」を読み、
考える

「どんなに深い絶望からも人は起ちあがらざるを得ない。すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根づき私たちは生きてきた。しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。再び世界の経済大国をめざす道はない。敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的思想。」これが「下山の思想」の要旨である。

 つい最近まで、多くの山に登り、登ることに生き甲斐をもって、趣味と言えば『登山』と答えてきた。山頂からの素晴らしい景色に見とれ、写真を撮り、悦にいっていた。「下山」という言葉は大切ですが、たんに山を下り、また、明日からの日常が始まる程度でしかなかった。しかし、山の事故の8割は下りに起きることが多い。登るよりも下りに注意がいる。

 この世も下山の時代と言う。我が国は、坂の上の雲から戦前・戦中・戦後と紆余曲折があったにせよ昇り詰め、戦後のどん底から奇跡の復興を遂げバブル期を乗り越え世界第2の経済大国。そこから下山の時代がはじまったようである。当然上り詰めれば頂上に達し、下山となる。

日本のみならず、世界が、急激に崩壊へと向かいつつあるという。我が国は、下山の途中で、未曾有の大災害を被った。再び戦後がはじまったようである。原発収束までに30年とも50年とも言う。著者である五木寛之氏の著書の内容は、同感することが多い。「新しい物差しをもって」「第2の敗戦を生きる(原発事故)」「欝病」「みえない死者達」「ことばもなくおろおろと」「下山途中の生き地獄」など、のびやかに明るく下山していくというのが心境であると結んでおられるが、穏やかではない。

私自身、すでに定年を迎えて、人生航路も、下山の時代。あの世に、第2の誕生に迎えるべき年代に差し掛かってはいるのだが、なんとか気持ちよいソフトランデイングを願いたい。
                                                                                      (2012.01.26 記
)


研究ノ-ト  心越禅師と水戸黄門との接点は

 国民的テレビ時代劇「水戸黄門」が12月、惜しまれつつ終了するそうです。(2011年12月19日終了、1226回)42年にわたる長寿番組とのこと。先日、中日新聞に特集がでていました。勧善懲悪・ホ-ムドラマ的・旅番組的が人気の秘密とか。しかしながら、伝統を受け継いで努力を重ねたものの、「反逆する力」=新しい個性が、視聴者を受け入れられなくなったと新聞のコラムにあった。
  
 さて、私はかねてより、心越禅師と水戸黄門との繋がりは何処にあったのだろうかと不思議に思っていた。
 心越禅師を調べてみると、1676年(延宝4年)の圧政から逃れるため中国杭州西湖にあった永福寺を出て日本に亡命。翌1677薩摩に入ったとされ、1679年黄檗山萬福寺木庵を訪ねるなど各地を遊歴。1681年(延宝9年)に長崎の唐寺・興福寺に住した。外国人でありながら日本国内を旅行したため、の密偵と疑われ長崎の寺に幽閉されることとなる。その後、1683年(天和3年)、水戸藩徳川光圀(いわゆる水戸黄門)の尽力により釈放。45歳の時、水戸にわたり、天徳寺に住し篆刻や古琴を伝えるとある。

心越禅師を始め多くの文人や僧侶が明末清初の騒乱期に日本に亡命した。その1人でもある。しかしながら、いきなり水戸黄門に助けられたとも思われない。

その後、童門冬二先生が中日新聞の「先人たちの名語録」という欄に、徳川光圀と明からの亡命学者朱舜水のことを掲載された。儒学者朱舜水は、鄭成功が鎖国政策下の日本へ明の救援を求める日本請援使として派遣されたが、1659年(万治2年)復明運動を諦めて日本の長崎へ亡命、1660年(万治3年)には筑後国柳川藩の儒者安東省菴に援助され、流寓生活を送る。明末清初の時期には中国から日本へ多くの文人が渡来し、大名家では彼らを招聘することが行われていた。 寛文5年(1665年)6月、66歳の時水戸藩藩主の徳川光圀に招聘され、江戸に移住し、「経世済民の学」としての実学(前期水戸学)を指導した。招聘理由は、伯父の尾張藩主徳川義直の勧めがあった。
 その後、心越禅師は、亡命した文人や学者のネットワ-クの中から
朱舜水の後継者に任命され水戸学の重鎮として光圀を助けることとなる。ここに、禅師と水戸光圀公との繋がりを見いだすことができた。

お話がながくなってしまったが、ネットで調べているうちに「心越禅師と徳川光圀の思想変遷試論―朱舜水思想との比較において― 徐 興慶先生の論文(日本漢文学研究3)を拝見することができた。禅師の業績は、水戸学のみならず、徐先生が、最後に書かれたように「心越は十四世紀後、中国曹洞禅学の日本における三百四十余年の空白を補い、同時にその幅広い学芸技能により徳川中期の日本文化の深層に影響を与え、・・」と貢献を認められている。曹洞禅学の中からも心越禅師の業績を見つめる必要があるようだ。

いずれにしても、どうしてこんな立派な方の直筆が当山にあるのだろうか不思議ですね。さらに、鎖国政策化の江戸時代において今以上にダイナミックな人物交流があったのにも驚きました。皆さん方のお考えはいかがですか。

 

           
杭州 永福寺にて 平成21年3月(2009年)
                            (2011.12.14 記)
○林陽寺の七不思議(その1)

    心越禅師の書 

田舎の寺にこんな立派なお宝が、不思議ですね。先日、福井県の大野市の山間に「曹洞第二道場」と称される寶慶寺を訪ねました。このお寺は、道元禅師を慕って日本に来日した宋の禅僧寂円が、伊自良氏の庇護によって開いたお寺です。伊自良氏は、鎌倉時代の御家人で美濃国伊自良郷(現在の山県市)の豪族です。その寺の本堂の上に掛けられている「寶慶寺」の額が、なんと中国僧心越(シンエツ)禅師が元禄5年(1692)に訪れて染筆したものであることを知りました。今から330年ほど前の話です。禅師は、1676年、の圧政から逃れるため中国杭州西湖の湖岸の永福寺を出て日本に亡命した禅僧です。敬意をこめて「東皐心越禅師」と呼ばれています。水戸藩徳川光圀(いわゆる水戸黄門)の庇護を受け、水戸の祇園寺の開山でもあります。黄檗宗の隠元禅師も同じ頃に来日されています。禅師は、日本篆刻の祖とか日本の琴楽の中興の祖と言われ、いわゆる僧侶であり文人でもあった方です。
 なんと禅師の書が林陽寺に有るのです。当山8世和尚の自己物となっていますが、当山の寺寶です。近隣の御寺院では芥見の龍雲寺様や関市下有知の龍泰寺様の寺号額が染筆です。当山の書は、「水龍唫」という詞牌(日本の詩と同様、朗読される詩歌の一種)だそうです。杭州の中国美術学院の書法系の先生にお願いして読んでいただきました。意味はよく判りません。興味のある方はご連絡ください。

中国永福寺の頂相 林陽寺の書(詞牌) 龍雲寺の寺号額 寶慶寺の本堂